「握力低下」と「足のしびれ」—本当の原因は首にあった50代女性介護職の改善事例
導入:複雑な症状の裏に隠された真実
臨床現場では、患者の訴える症状の部位と、その根本原因の場所が一致しないケースにしばしば遭遇します。本稿では、初診時の診断から一歩踏み込み、客観的なデータを基に真の原因を突き止め、複雑な症状を改善に導いた臨床推論のプロセスを解説します。
今回のクライアントは、50代の女性介護職員の方です。彼女は複数の症状を抱えて来院されました。
- 大腿から下腿にかけての倦怠感としびれ
- 慢性的な腰痛
- 首の痛み
専門医からは「坐骨神経痛(原因不明)」と診断されていましたが、私たちの評価は異なる結論を導き出しました。痛みの場所だけにとらわれず、身体全体の関連性から問題を紐解いていく過程を追ってみましょう。
1. 初診時の評価:仮説の構築
患者の訴え(S)
初診時(2025年9月17日)、クライアントは以下の主観的な症状を訴えていました。
- 大腿から下腿にかけて倦怠感としびれがある(安静時は軽減するが、同じ姿勢を保つのが辛い)。
- 仕事中の食事介助などの動作で痛みを感じるが、動き続けていると忘れることがある。
- 腰痛は慢性的に続いている。
- しゃがむ際に足首に詰まるような感覚がある。
- 首を後ろに反らす(伸展する)と頸部に痛みが出る。
- 既往症として、不眠のため睡眠薬(ゾルピデム)を毎日服用している。
客観的所見(O)
問診に加え、姿勢や動作の観察、簡単な検査から以下の客観的データを得ました。
- 姿勢: 背中が丸まった亀背(猫背)と、それに伴う腰椎の過剰な前彎が見られる。
- 動作: 立ったまま前屈すると痛みが出る(陽性所見)。座った状態で背中を反らすと痛みが出る(陽性所見)。
- 握力: 右 15.7kg、左 13.7kg。同年代の女性の平均と比較して明らかに弱い状態。
当初の評価と計画(A/P)
これらの所見から、当初は「亀背や腰椎過前彎といった不良姿勢が腰部への慢性的な負担を増大させ、結果として坐骨神経痛に似た下肢の症状を引き起こしている」という初期仮説を立てました。計画としては、姿勢改善と体幹の安定化を図るエクササイズを中心に進める方針でした。
2. 経過を追う中で見えた重要な手がかり:握力の変動
この症例を解き明かす上で最も重要な鍵となったのが、「握力」という客観的な数値データでした。
クライアントの「痛い」「楽になった」という主観的な感覚とは別に、握力の数値は身体の内部で起きている変化、特に神経の状態を驚くほど正確に反映していました。
以下は、約4ヶ月にわたる握力の変動です。
- 初診時 (9/17): 右 15.7kg / 左 13.7kg (平均よりかなり弱い状態からスタート)
- 改善期 (11/10): 右 18.3kg / 左 16.4kg (指導を守り、順調に回復)
- 悪化期 (12/9): 右 16.1kg / 左 13.1kg (セルフケアを中断し、著しく低下)
- 劇的な回復期 (12/25): 右 20.4kg / 左 21.9kg (アイシングの徹底遵守後、過去最高値を記録)
- 安定期 (1/8): 右 22.4kg / 左 22.7kg (高水準を維持)
この数値の推移は、治療アプローチが正しかったのか、あるいはクライアントがセルフケアを遵守できているかを判断する上で、極めて信頼性の高い指標となりました。特に、12月9日の著しい悪化と、その後の12月25日の劇的な回復は、私たちの臨床推論を大きく転換させるきっかけとなりました。
3. 視点の転換:胸椎の硬さから頸椎の不安定性へ
2025年12月9日、クライアントの握力は初診時とほぼ同じレベルまで低下していました。問診すると、この1ヶ月間、指導していたアイシングを全く行っていなかったことが判明しました。この「悪化」という事実が、治療方針を見直す決定的な転換点となります。
当初、私たちは「胸椎(背中の上部)の硬さ」が不良姿勢の一因と考え、その柔軟性を高めるエクササイズを指導していました。しかし、握力がこれほど明確に低下したことから、仮説を次のように修正しました。
「真の原因は頸椎の不安定性(ハイパーモビリティ)であり、胸椎の硬さは、その不安定な首を守るために体が無意識に固めている防御反応なのではないか」
これは、体が不安定な頸椎を保護するために、意図的に胸椎の可動性を犠牲にして剛性を高め、いわば「ギプス」のように機能させている状態だと解釈できます。
この新たな評価に基づき、私たちは重要な治療方針の変更を行いました。それは、それまで指導していた胸椎伸展エクササイズを完全に中止するという決断です。この段階で胸椎の防御的な硬さを無理に解放しようとすることは、不安定な頸椎へのストレスを増大させ、症状を悪化させる医原性のリスクさえ伴います。良かれと思って行っていたエクササイズが、クライアントにとって有害になりかねないと判断したのです。
4. 的を絞ったアプローチの効果:回復の鍵となったアイシング
治療方針を「頸部の消炎と安定化」という一点に絞り込み、クライアントには、痛みの有無にかかわらず頸部のアイシングを徹底するよう再度強く指導しました。
その結果は、次の来院日(12月25日)に劇的な形で現れました。1ヶ月以上アイシングを中断した結果、著しく低下していた握力が、わずか16日間の徹底した遵守で過去最高値を記録したのです。特に左側は前回から+8.8kgという驚異的な回復を見せました。これは、私たちの仮説が正しかったことを示す「動かぬ証拠」となりました。
手の筋力を支配する神経は、首(頸部)から出ています。この領域に炎症があると、まるで電話回線に雑音(ノイズ)が混じるように、脳から手への指令が弱く、不明瞭になります。
アイシングによって頸椎周辺の炎症という「ノイズ」が除去され、脳からの指令が再び妨げられることなく手に届くようになったことが、この劇的な握力回復のメカニズムでした。
5. 改善のプロセス:痛みの移動は回復のサイン
治療の最終盤(2026年1月8日)、クライアントから「腰はだいぶ良いのですが、痛みやしびれが下腿や足首に移動した感じです」という報告がありました。一見すると悪化したかのように聞こえますが、これは神経症状が治癒していく過程で典型的に見られる肯定的なサインです。
神経の圧迫が中枢(根本原因である首や腰)から解放されるにつれて、症状が末端(足先)へと移動していく現象で、「セントラリゼーション(中心化現象)」と呼ばれます。
さらに、クライアントの過去の職業歴を深掘りする中で、現在の体幹機能不全の遠因が明らかになりました。かつてバスガイドとしてハイヒールを常用していたことが、骨盤を後傾させる特有の姿勢パターンを体に染み込ませ、腹圧の低下を招いていたのです。
最終的なアプローチとして、頸部へのアイシングでクライアントが「『キーンとする』頭痛のような寒さ」を感じるようになったため、一時的に休憩とし、代わりに腰部のアイシングと、体幹の腹圧を高めるための呼吸法や着座動作の再教育へと移行しました。治療は新たなステージに入ったのです。
結論:本症例から学ぶべきこと
この症例は、私たちに多くの臨床的な教訓を与えてくれました。特に重要なポイントは以下の3つです。
1. 痛みの場所と原因の場所は一致しない
足のしびれや腰痛の根本原因は、遠く離れた頸部の問題にありました。症状が出ている部位だけにとらわれず、身体全体を一つのシステムとして評価することの重要性を改めて示しています。
2. 客観的データの活用
クライアントの主観的な感覚だけでなく、「握力」という客観的な数値データが、治療方針の決定と修正、そしてアプローチの有効性を証明する上で極めて重要な役割を果たしました。
3. 治療計画の柔軟な修正
初期仮説に固執せず、クライアントの反応(特に悪化のサイン)を真摯に受け止め、時にはエクササイズを中止するなど、計画を大胆に修正する勇気が必要です。今回のケースでは、その方針転換が劇的な改善につながりました。
お問い合わせ(公式ラインページ)
https://lin.ee/20ikp5Y
